所沢聖地霊園では、ご来園されるすべての方に安らぎをご提供しております。

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霊園からのお知らせ

整備された園内と充実した施設で、お迎えいたします。

相続とお墓について

江戸時代中頃、浄土宗の方々から浄土真宗という名称はもってのほかだとの指摘がありました、それは真宗というのを本当の宗、まことの宗派だと理解されてしまった為です。
元々浄土宗があるにも関わらず間に「真」を入れるのはおかしいではないかと、もともと親鸞聖人は法然上人の弟子ではないかと・・そんなふうに言われ続けてきました。
その後明治時代になり、太政官(内閣府の前身)の時にようやく浄土真宗本願寺派と名乗りますと言っていた西本願寺派と、その他は(浄土を取り)真宗~派と名乗るという内容の決裁がおり現在に至っています。

豊島区の雑司が谷に祭られている鬼子母神という神様は1000人の子供がいました。
人間の子供をさらって来ては食べていて、本人はそうしなければ生きることが出来ないので毎日さらって来ては食べていました。
そのうち子供たちをさらわれた親達の悲しみが凄いという話がお釈迦様のところに届きました。これはいけない事だと言う事で、お釈迦様が鬼子母神にそういう事はやってはいけない事だと諭しますが鬼子母神はその内容を理解出来ないでいました。
お釈迦様は鬼子母神に何とか子供を連れ去られた親の苦しみを知ってもらおうと、鬼子母神が一番可愛がっている末の子供を隠しました。
鬼子母神はその子供を懸命に捜しましたが見つからず、結局お釈迦様の所に鬼子母神が訪ねて来ました。 お釈迦様がどうしたのかと尋ねた所、鬼子母神が「一番可愛がっている末の子供がいなくなってしまいました、なんとかして見つけてください」と懇願しました。 お釈迦様は鬼子母神が今までしてきた事を問いただし、子供をさらわれた親の気持ちが理解出来るか、いかにあってはならない事を自分がしてきたのかを諭しました。ようやくどれ程の事を自分がやってきたかを理解した鬼子母神はそれ以降子供を守る神様に変わりました。

現在の日本のこのような中々立ち直れない経済状況を見ると、財産が無い者は財産を手にしよう、財産が有る者は財産を増やそうと・・そう考えてしまいそうな時代ではありますが(私のものはひとつも無いに関わってきますが)皆様方、今目の前に有るものは間違いないものだと思っていらっしゃいますか?
仏教の教えで言う所の諸行無常、全ての目に見えるものは全てでは無く、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬たりとも存在は同一性を保持する事が出来ないと言う事になります。

宇宙というのは限りがあります、宇宙の広がりというのは136億年、現在は134億年くらいまできているそうですが、太陽系が誕生して46億年、この先太陽による核融合で太陽系が消滅した場合、消滅後は真っ白になるそうです。
空を見上げて色々な星が輝いている時にお釈迦様は悟りを開いたんだなあと・・・。
そのような事を考えていくと私たちもどんどん変わっていく、変っていかなければならない、またしっかりと道理・真理に基づいて物事を見つめていくという事が大事になり、それが本来の仏教の教えになります。

因果応報というのは文字の通り原因があって結果がある、原因によって結果に報われる。悪いことをすれば悪い結果、悪因悪果、良いことをすれば良い結果、善因善果ということが平安時代の書物にありますが良い事をしたから良い結果になる、悪い事をしたから悪い結果になるという事以外にも良い事をしても悪い結果になる、悪い事をしても良い結果になる、そのような事もよくある事だと思います。
悪い事をした人間が、責任を秘書に被せて当人は知らない顔をするような仕組みがありますね。
また子供が100円拾って交番に届ける、交番ではちゃんと記録します。子供にはお金を拾ったらちゃんと交番に届けなさいよと教えますね、その様な教えは非常に良い教えですがただ、良い事をしても逆の結果になる事もあるんです→善因悪果 例えば電車の車内で席を譲ったら余計な事をしないでくれと言われる。 私も今年に入って電車に乗って半年で2度程席を譲られました・・最初は戸惑いましたね~素直に席を譲ってもらって良いのだろうかと、譲ってくれた方もあまり私と変わらないような感じもしましたし、素直に喜んで良いのか・・私もその様に見られる歳になったのだと思いました、譲って頂いた方の心遣いの気持ちは確かに伝わりました。
こういう事を善因善果とみなさん思われるでしょうけども、仏教の教えの中に六波羅蜜という教えがありまして、布施、自戒、忍辱(にんにく)、精進、禅定、智慧布施というのは施す事という考え方であります。例えばご法要をお願いしたお施主様はお寺様に感謝の意と共に志としてお包みするのがお布施なんですね
先程もお話しましたが、車内で席を譲るといった行為はショウダンと言います、
それは形の無い布施になります。もし席を譲られた方が何も言わないで座った場合に譲った方は「あれ?この人ありがとうも言わないな」と普通は思いますよね
でも、その様に言ったり、また思ったりしたらそれは仏教上では布施にはなりません。
布施というのは行為そのものです、もし少しでも見返りの気持ちが発生しますとそれは布施にはなりません、仏教が求める布施というのは厳しいものなのです。

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